【大分類】瀉下剤…排便を促す中薬です。
【中分類】潤下薬…腸を潤して下す作用の中薬です。
【学名】…アサ Cannabis sativa Linne
【別名】…火麻仁・大麻仁・麻仁・大麻・マリファナ
虚弱者の各臓腑の生理的水分不足を緩慢に調えます。
大麻・マリファナは不法なドラッグとみなされていますが、重要な生薬でもあります。
アメリカを除く多くの地域で、法の認可のもと、緑内障、多発性硬化症、癌をはじめ、様々な病気に他の治療法と併用して利用されています。
中国では、大麻の種子は緩下剤(潤燥便秘)として利用されています。
日本に野生する大麻はアサCannabis sativa L.であり、「大麻草」ともいわれます。
これに類似した植物はCannabis indica Lam.で和名として「インドアサ」と呼ばれています。日本ではアサの亜種とされることも多いのですが、欧米では独立種として扱われることが多いようです。
葉の形は図1に示すように異なりますが、幼植物の頃はSativa種もIndica種に近いことがあります。
出が暇種の樹形は成長すると写真1に示すように、4mにも達するものもありますが、Indica種は通常は室内でも栽培できる程、成長しても大きくはなりませんよ!。
両者はクワ科に属する植物とされていましたが、種子に胚乳があることなどから、現在はアサ科として区別しています。
その用途は薬剤師には切っても切れないものがあります。種子は古くから麻子仁(マシニン)として麻子仁丸、炙甘草湯(シャカンゾウトウ)などの漢方薬原料、あるいは緩下薬として使用されてきました。
また、七味唐辛子などの食用、小鳥の飼料、製油原料としての用途もあります。
しかし国内で種子を生産している農家はなく、中国からの輸入に頼っているのが現状です。
また、茎は繊維である麻織物の原料として用いられていますね!。
【中国産地】…四川省、雲南省
薬物の治療効果と密接に関係する薬性理論(四気五味・昇降浮沈・帰経・有毒と無毒・配合・禁忌)の柱となるのが次に掲げる「性・味・帰経」です。
【温寒】…
平
※性:中薬はその性質によって「寒・涼・平・熱・温」に分かれます。例えぱ、患者の熱を抑える作用のある生薬の性は寒(涼)性であり、冷えの症状を改善する生薬の性は熱(温)性です。寒性、涼性の生薬は体を冷やし、消炎・鎮静作用があり、熱性、温性の生薬は体を温め、興奮作用があります。
性質 | 作用 | 対象となる病証 |
---|---|---|
寒/涼 |
熱を下げる。火邪を取り除く。毒素を取り除く。 |
熱証。陽証。陰虚証。 |
熱/温 |
体内を温める。寒邪を追い出す。陽を強める。 |
寒証。陰証。陽虚証。 |
平 |
熱を取り除き、内部を温める2つの作用をより穏やかに行う。 |
すべての病証。 |
味 | 作用 | 対象となる病証 | 対象五臓 |
---|---|---|---|
辛(辛味) |
消散する/移動させる。体を温め、発散作用。 |
外証。風証。気滞証。血瘀証。 |
肺に作用。 |
酸(酸味)すっぱい。渋い。 |
縮小させる(収縮・固渋作用)。 |
虚に起因する発汗。虚に起因する出血。慢性的な下痢。尿失禁。 |
肝に作用。 |
甘(甘味) |
補う。解毒する。軽減する。薬能の調整。緊張緩和・滋養強壮作用。 |
陰虚。陽虚。気虚。 |
脾に作用。 |
鹹(塩味)塩辛い。 |
軟化と排除。大腸を滑らかにする。しこりを和らげる軟化作用。 |
リンパ系その他のシステムが戦っているときの腫れ。 |
腎に作用。 |
苦(苦味) |
上逆する気を戻す。湿邪を乾燥させる。気血の働きを活性化させる。熱をとって固める作用。 |
咳・嘔吐・停滞が原因の便秘。排尿障害。水湿証。肺気の停滞に起因する咳。血瘀証。 |
心に作用。 |
淡(淡味) |
利尿。 |
水湿証。 |
― |
【薬効】…潤腸作用 瀉下作用 血糖降下作用
【薬理作用】…最も緩和な瀉下薬で、老人や虚弱者に適します。血糖降下作用もあります。
【用途】…緩下薬として、老人、子供、妊産婦など体力の消耗した人、或いは病後の大便秘結して下してはならない人に用いる。
【学名】…アサ Cannabis sativa Linne
【禁忌】…下痢の場合は使用しないこと。
【注意】…都薬雑誌2014/Vol.36 あぶない植物 第2回 バイオタイプの大麻
安田一郎 より抜粋
●日本薬局方
【出典】…神農本草経
【三品分類(中国古代の分類)】… 神農本草経や名医別録などでの生薬分類法
上品(不老長生薬)
【基原(素材)】…クワ科 Moraceaeアサの種子(成熟果仁)です。
図01:麻子仁の植物画像
図02:麻子仁の葉っぱ画像(大麻草)
図03:麻子仁の種子の画像
図04:麻子仁の植物画像2
図05:麻子仁の植物画像3
図06:麻子仁の植物画像4
図07:大麻農家を訪問した昭和天皇
図08:麻子仁の葉っぱ画像(インドアサ)
本中薬(麻子仁)を使用している方剤へのリンクは次のとおりです。
炙甘草湯 »
潤腸湯 »
麻子仁丸 »
潤腸丸 »
生薬は、薬草を現代医学により分析し、効果があると確認された有効成分を利用する薬です。 生薬のほとんどは「日本薬局方」に薬として載せられているので、医師が保険のきく薬として処方する場合もあります。
中薬は、本場中国における漢方薬の呼び名です。薬草単体で使用するときを中薬、複数組み合わせるときは、方剤と呼び分けることもあります。
本来中薬は、患者個人の証に合わせて成分を調整して作るものですが、方剤の処方を前もって作成した錠剤や液剤が数多く発売されています。これらは、中成薬と呼ばれています。
従って、中国の中成薬と日本の漢方エキス剤は、ほぼ同様な医薬品といえます。
当帰(カラトウキ)と配合し、エネルギーや体液不足にしばしば関連する出産後の女性や高齢者の便秘の治療に使用します。
●種子は、麻子仁丸によく用いられます。この丸薬の名前は大麻のもう一つの中国名、麻子仁にちなんでつけられています。
●アメリカでは、大麻を栽培、所有、あるいは使用することは不法です。
●生薬を扱う店は、栽培されることがないよう湯に通した大麻の種を販売しています。
大麻はアサ科の1年草で、雌雄異株の双子葉植物であり、成長すると約110日間で高さ3~4mに達し、茎の直径は2~3cmとなります。
古くは縄文時代の鳥浜遺跡(約1万年前)から大麻繊維や種子が発見されています。
大麻の繊維は織物のほかに、畳表の縦糸、魚網や釣り糸、蚊帳、下駄の鼻緒などに使われていました。
さらに繊維を取った後の苧殻(おがら)は、松明やカイロ灰の原料に使われ、種子は食用、灯り用の油として、根や葉は薬用として利用されていました。
日本人は、稲作より古い1万年以上前から大麻という「農作物」を衣食住に利用してきた。繊維を布や魚網に加工し、茎を屋根材に、種子(麻の実)を食用に、葉を薬に用いるなど、ほんの70年ほど前まで、大麻は日本人にとって非常に身近な存在だったのです。
大麻は、なぜ日本で禁止薬物になったのか? その意外な歴史背景を、書籍『日本人のための大麻の教科書「古くて新しい農作物」の再発見』より一部抜粋・再構成してお届けします。
明治時代以降、海外産の繊維の輸入が増えるに従って、国内産の大麻の生産量は落ち続けていました。しかし、政府は1942年に原麻生産協会を設立し、麻類の増産奨励を行っています。長野県大麻協会が発行した『大麻のあゆみ』には、太平洋戦争当時、全生産量の90%が軍需用だったと記録されています。
敗戦後の1945年、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれました。アメリカ軍が主体となったGHQが日本を占領したため、GHQには米軍の印象が強いのですが、本来は11カ国で構成された極東委員会の決定を遂行する機関でした。
同年10月12日、GHQは「日本に於ける麻薬製品および記録の管理に関する件」という覚書(メモランダム)を発行しました。麻薬の定義は「あへん、コカイン、モルヒネ、ヘロイン、マリファナ(カンナビス・サティバ・エル)、それらの種子と草木、いかなる形であれ、それらから派生したあらゆる薬物、あらゆる化合物あるいは製剤を含む」とされ、当時の厚生省はこの指令に基づき11月24日、厚生省令第四六号「麻薬原料植物の栽培、麻薬の製造、輸入及輸出等禁止に関する件」を交付しました。
しかし、日本人はこの時点でもまだ戦前と同様、「マリファナとはインド大麻(※1930年に制定された麻薬取締規則において、日本の大麻(繊維型)と区別するために、海外の大麻(薬用型)が「インド大麻」として規制された)のことであり、農作物としての大麻は無関係である」と考えていました。そのため1946年春から夏にかけて、例年どおりに大麻の栽培は行われていました。
ところが、1946年にある事件が起こります。GHQの京都軍政部により、京都府で栽培されていた大麻が発見され、農家2名を含む4名の民間人がGHQの命令違反で検挙されたのです。不運にも、彼らが日本の大麻取扱事件の初の摘発者となりました。
京都府は麻薬採取の目的ではなかったことを訴え、京都大学薬学科、刈米・木村両博士の鑑定書を添付し、インド大麻ではないことを証明しようとしました。しかし、関係者の努力は実らず、「その栽培の目的如何にかかわらず、また麻薬含有の多少を問はず、その栽培を禁止し、種子を含めて本植物を絶滅せよ」との命令が下されたのです。
占領期とはいえ、「植物を絶滅せよ」という命令は常軌を逸しているとしか思えません。この状況を放置しておけば、衣料や漁網などの生活用品を生産できなくなります。専業の大麻農家も少なくなかったため、数万人規模で農家の困窮が起きます。さらに、大麻の種子はお盆を越すと発芽率が著しく悪くなるため、一年以上この状況が続いて発芽する種子が激減すれば、大麻農業は壊滅的な打撃を受ける危険がありました。
こうした報告を受け、占領下にあった政府はGHQへの事情説明と折衝を続けました。農林省は1946年11月に農政局長名で、終戦連絡事務局(GHQとの折衝を担当する機関)に大麻の栽培許可を要望しています。全面的な禁止を回避し、「農作物としての大麻」を守ろうとしたのです。
国を挙げての再三にわたる折衝の結果、1947年2月、連合軍総司令官より「繊維の採取を目的とする大麻の栽培に関する件」という覚書が出され、一定の制約条件の下、大麻栽培が許可されました。制約とは、栽培許可面積を全国で5000町歩とし、栽培許可県を青森、岩手、福島、栃木、群馬、新潟、長野、島根、広島、熊本、大分、宮崎県に限るというものです。
このときに初めて、日本の大麻を規制する厚生・農林省令第一号「大麻取締規則」が制定されたのです。法制定に関わった元内閣法制局長官の林修三氏はのちの1965年「時の法令530号」で、「先方は、黒人の兵隊などが大麻から作った麻薬を好むので、ということであったが、私どもは、なにかのまちがいではないかとすら思ったものである」と語っているほどです。
1947年9月、昭和天皇が栃木県国府村(現・栃木市国府町)を訪問されています。「国府村農協組合にて大麻製造御高覧」という説明文がついた写真が残っていますが、ご訪問の真意はわかっていません。国府町で伺った話によると、大麻農業の存続を危惧して動揺する農民たちを、「これからも大麻はつくれるから、安心してください」と励ますためだったとされています。
栃木県の大麻農家を訪問した際の昭和天皇(出典:『日本人のための大麻の教科書 「古くて新しい農作物」の再発見』より)
生物学者であり、植物にも造詣が深かった昭和天皇の有名な言葉に「雑草という草はない。どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草と決めつけてしまうのはいけない」というものがあります。占領下におけるGHQの命令に、心を痛めておられたのではないでしょうか。
その後、大麻の取り締まりを強化するため、前年までの取締規則を法制化するようGHQから要請があり、1948年7月10日に「大麻取締法」が制定されました。同時に「麻薬取締法」が制定されましたが、これは農家が取り扱う従来の農作物としての大麻と、医師などが取り扱う麻薬類を分けるための措置でした。
この法律の最も大きな問題と考えられる点を紹介します。それは、通常の法律は「総則」の冒頭に制定の「目的」が書かれるのですが、なぜか大麻取締法にはこの目的が書かれていないまま70年以上が経過しているという点です。
このため、そもそも農家を保護するための苦肉の策だったものが、いつの間にか大麻事犯を取り締まる法律へと変化しているのです。
また、日本が主権を回復した際には、大麻取締法の廃止が前提条件となっていました。1952年、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本の主権が回復し、占領時の法制について再検討が行われます。大麻取締法の廃止は優先順位が高く、内閣法制局は少なくとも栽培免許制の廃止を行うよう働きかけました。厚生省も同様に取締法の廃止の必要性を認めていたものの、決定には至らず、見送られることになったのです。
ここまで、大麻取締法が制定されるまでの流れを時系列で追いかけました。強調しておきますが、大麻取締法は本来、「農作物としての大麻」を守り抜こうとした結果でもあるのです。
大麻取締法が制定された1948年、大麻栽培の免許取得者数は2万3902人でした。その数は意外なことに年々増加し、1954年には3万7313人となっています。増加の要因は戦後の復興需要に伴うもので、1950年に発行された『実験麻類栽培新編』によると、当時の大麻繊維の利用先は下駄の芯縄52%、畳経糸32%、漁網12%、荷縄4%でした。
しかし、1954年を境に免許取得者は減少に転じ、1964年には7042人、1974年には1378人まで激減。その要因は高度経済成長期の生活スタイルの急激な変化です。化学繊維の普及も進んだことから、それまでは大麻でなければ担えなかった需要が、急速に失われていったのです。
また、この間の国際的な動きに、1961年に国連が採択した「麻薬に関する単一条約」があります。この条約で大麻が指定されたことから、世界的に大麻への規制圧力が高まりました。日本がこれまでに大麻取締法を廃止できなかった大きな理由は、この条約にあります。
農作物としての需要が激減するなか、1960年代には欧米を中心にベトナム戦争への反対運動などを契機としたヒッピー文化が隆盛し、マリファナ喫煙が流行しました。その影響は大麻を喫煙する習慣がなかった日本にも波及しました。
大麻農業の保護を目的として制定された大麻取締法はいつの間にか「違法な薬物」を取り締まるための法律として機能するようになりました。そして、農作物という側面が忘れ去られた大麻は「ダメ。ゼッタイ。」な存在へと変わっていったのです。
1.【神農本草経】(西暦112年)
中医薬学の基礎となった書物です。植物薬252種、動物薬67種、鉱物薬46種の合計365種に関する効能と使用方法が記載されています。
※神農:三皇五帝のひとりです。中国古代の伝説上の人といわれます。365種類の生薬について解説した『神農本草経』があり、薬性により上薬、中薬、下薬に分類されています。日本では、東京・お茶の水の湯島聖堂 »に祭られている神農像があり、毎年11月23日(勤労感謝の日)に祭祀が行われます。
2.【本草経集注】(西暦500年頃)
斉代の500年頃に著された陶弘景(とうこうけい)の『本草経集注(しっちゅう)』です。掲載する生薬の数は、『神農本草経』(112年)の2倍に増えました。
松溪論畫圖 仇英(吉林省博物館藏)
陶弘景(456~536年)は、中国南北朝時代(420~589年)の文人、思想家、医学者です。江蘇省句容県の人です。茅山という山中に隠棲し、陰陽五行、山川地理、天文気象にも精通しており、国の吉凶や、祭祀、討伐などの大事が起こると、朝廷が人を遣わして陶弘景に教えを請いました。
そのために山中宰相と呼ばれました。庭に松を植える風習は陶弘景からはじまり、松風の音をこよなく愛したものも陶弘景が最初です。
風が吹くと喜び勇んで庭に下り立ち、松風の音に耳をかたむける陶弘景の姿はまさに仙人として人々の目に映ったことでしょう。
3.【本草項目】(西暦1578年)
30年近い歳月を費やして明代の1578年に完成された李時珍(りじちん)の『本草項目』です。掲載する生薬の数は、約1900種に増えました。
『本草綱目』は、1590年代に金陵(南京)で出版され、その後も版を重ねました。わが国でも、徳川家康が愛読したほか、薬物学の基本文献として尊重され、小野蘭山陵『本草綱目啓蒙』など多くの注釈書、研究書が著されています。
本草綱目は日本などの周辺諸国のみならず、ラテン語などのヨーロッパ語にも訳されて、世界の博物学・本草学に大きな影響を与えています。
儒者・林羅山(1583~1657年)の旧蔵書
李時珍(1518~1593年)は、中国明時代(1368~1644年)の中国・明の医師で本草学者。中国本草学の集大成とも呼ぶべき『本草綱目』や奇経や脉診の解説書である『瀕湖脉学』、『奇経八脉考』を著した。
湖北省圻春県圻州鎮の医家の生まれです。科挙の郷試に失敗し、家にあって古来の漢方薬学書を研究しました。30歳頃からあきたらくなって各地を旅行し調査したり文献を集めたりはじめます。ついに自分の研究成果や新しい分類法を加え、30年の間に3度書き改めて、1578年<万暦6年>『本草綱目』を著して、中国本草学を確立させました。
李時珍、生家にて »
4.【中医臨床のための中薬学】(西暦1992年)
現在、私が使用している本草の辞典です。生薬の記載個数は、約2,700種に増えました。
神戸中医学研究会の編著です。
【薬用部分】…
脂質 Lipids:
テルペノイド(精油) Terpenoids (Essential oils):
カンナビノイド Cannabinoids:
C. sativa var. indicaの葉の腺毛: Cannabidiol, Tetrahydrocannabinol
ビタミンE (トコフェロール類) Vitamin E (Tocopherols):
ペプチド Peptide:
【中国での一般的服用量】…9~30g